企業がメンタルヘルスに取り組む理由
メンタル・ヘルス研究所 今井 保次
1.企業メンタルヘルスの始まり
通常の仕事をする組織とは別に、従業員の個人的な相談に応じる窓口を設けることは、1914年(大正3年)のフォード自動車会社に始まる(Carroll 1996)。日本では1918年(大正7年)の八幡製鉄所にあったといわれている(中西 1994)。最近、この種の相談室はEAP(従業員援助制度)というふうに言われることがあるが、基本的には従来の相談室と変わるところがない。社外にEAPのサービスを提供する企業が増えたのが新しい展開である(今井 1988)。
大企業発祥以前の生産の担い手は家族であった。工業は家内工業といわれ、農業も商業も家族が担っていた。そこでは‘お上さん’がメンタルヘルスの担当窓口だったかもしれない。当時の家内工業・商家は家族の機能としてメンタルヘルスはあった。一方、大企業は家族の資産を引き継がない長子以外の者が集められ、家族から分離したひとりの従業員として官僚組織に組み込まれたため従業員の相談機能を担うものがなかった。しかし、組織は家族同様、人によって構成される限り、個人的な相談に応じる機能が必要であった。つまりメンタルヘルス活動の一部は、大企業の発祥とともに企業経営に取り込まれていたといえる。
2.社員のヘルスケア(健康管理)のため
体の疾患と同じく、心の病はそれ自身、克服されるべき災いである。罹患した本人も回りの仲間も家族も巻き込む災いである。まさにその災いを除くためにメンタルヘルス活動はある。人事院の発表によれば、公務員の長期病休者は全体としては減少しているものの、「精神及び行動の障害」に分類される者は5年ごとの発表で順位を上げ、直近の発表では原因傷病の第1位(29%)となった(人事院 2003)。民間企業でも休職者の1位が心の病であることはめずらしくない。なかには心の病しかないという企業もある。健康管理のニーズは、身体疾患から精神疾患に比重をシフトしたといえよう。
3.コスト(損失)を少なくするため
体の疾患と同じく、心の病が経営コストを増大させることは明らかである。病欠は体も心の場合も損失をもたらす。本来勤務するところを欠勤するのだから、勤務して得られるアウトプットを生む機会は無いということだ。病欠とならないまでも病を患えば、仕事のスピードや質は落ちるのが普通だ。効率は明らかに低減する。
ILOの報告書でも、「従業員のメンタルヘルスは安全と健康と労働条件の問題として扱われており、経営者団体、労働組合、政策立案者たちが企業の生産性やコストに与えるインパクトを懸念している」となっている(ILO 2000)。
4.リスクマネジメント(危機管理)のため
事故や犯罪の発生と同様に、経営者・従業員の自殺、心の病の発生は企業にとってのリスクである。心の病ばかりではないが、直接的な原因(たとえば病原菌)を特定できない病が増えてきた。そこで、このような場合に、原因といわずに‘リスクファクター’というようになった。リスクファクターとは病気罹患の可能性を高めるもののことである。
事故や犯罪のリスクを下げる活動と同様に、メンタルヘルスのリスクマネジメントは予防活動である。その予防活動は、リスクの事前評価を強調することが多い。経営者・従業員の自殺、それに心の病になる危険を未然に防ぐことが、メンタルヘルスにおけるリスクマネジメントの目的となる。
5.コンプライアンス(法令順守)のため
1975年(昭和50年)2月25日、演習中の事故による死亡という自衛隊八戸駐屯地事件で最高裁は、「労働者が、労務提供のため設置された場所、設備若しくは器具等を使用し又は使用者の指揮の下に労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務である安全配慮義務が成立している」と判断した。これ以後、組織・企業の安全配慮義務という法律用語が定着した。2000年(平成12年)3月24日、同じく最高裁は、入社約1年5ヶ月後に出張の帰り自宅で首つり自殺をした電通事件においても「使用者は、その雇用する労働者に従事させる業務を定めてこれを管理するに際し、業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことがないよう注意する義務を負う」とし、企業側に安全配慮義務違反があったとして企業を有罪とした。最高裁の判断の前、高裁の判決は「被災者側に3割の責任、会社の責任を7割」として賠償金を減額した。しかし最高裁はこの過失相殺という考え方をとらなかったことに注目すべきである。問われたのは企業の安全配慮義務違反である。
労働安全衛生法 第3条第1項目においても「事業者は、単にこの法律で定める労働災害の防止のための最低基準を守るだけでなく、快適な作業環境の実現と労働条件の改善を通じて職場における労働者の安全と健康を確保しなければならない」となっている。法律の条文に規定された基本的労働条件の遵守ばかりでなく、企業が従業員に対して考慮すべき事項はそれらを越えたものとして規定されている。
6.CSR(企業の社会的責任)をはたすため
法律を遵守するという前提のなかで、法律に規定されていない事柄もCSR(企業の社会的責任)として、メンタルヘルスは議論されている(厚労省 2004)。安全配慮義務のような従業員に対する責任論ではなく、社会に対する責任論としての議論である。企業が社会からの要請にどう応えるのか、社会問題に対してどう対処するのかが問われている。逆に、企業が社会に迷惑をかけてはならないという視点で企業活動を見直そうとしている。たとえば自殺が3万人を越え続けて社会問題となっているが、企業の責任として自殺者を出さないことは、社会に責任を果たすことになろう。社会に迷惑をかけないとは、企業経営の結果として病人を出してはならないということだ。
7.ヒューマンリソース(人的資源)の充実のため
従業員が健康ならば企業業績が上がると考えるのは、いかにも単純な議論だ。経営が健康問題に取り組む理由として企業業績の向上を挙げる根拠は、損失の低減を理由として挙げる根拠より希薄かもしれない。それは、どんなに能力のある人材を集めたとしても、マネジメントが貧困であれば良い成果が出ないのと同じに、どんなに健康な人材があったとしても組織のアウトプットに結びつくとは限らないからだ。しかし、健康不良の場合はほぼ確実にパフォーマンスが落ちる。利益創出は健康問題への取り組みだけでは実現しないが、健康無しでは実現しにくい目的である。
(引用文献)
Carroll, M. 1996 Workplace Counselling SAGE
今井保次 1988 アメリカ企業におけるメンタル・ヘルス−EAP(Employee Assistance Program)の導入− 心の健康 Vol.3 No.2 42-46
中西信男 1994 産業カウンセリング (内山喜久雄 編著 産業カウンセリング 日本文化科学社)
人事院 2003 平成13年度国家公務員長期病休者実態調査結果概要 平成15年3月25日発表
ILO(International Labour Office) 2000 Mental Health in the workplace
厚生労働省 2004 労働におけるCSRのあり方に関する研究会 中間報告書 平成16年6月25日発表




